みなさん、こんばんは。
学生時代4継選手だった荒馬です。
小中高と陸上部だった荒馬。
陸上を始めて、続けた動機もパッとしませんし、
心も技術も半端な選手だったので、偉そうに語れるものは持っていません。
とは言え、半端ながらも、
陸上は楽しく、ゴールテープを切る時の快感や
スタンドの真ん前で行う走り幅跳びなどは、ダイレクトに拍手が響くので、
自分だけに送られる、歓声や拍手に喜びを感じていました。
しかし、一番真剣に取りくんでいた高校時代、
持病の喘息が悪化し、かかりつけの医師が
その前年に喘息の発作で亡くなったと言われている歌手の方を
例に挙げて、
「う~ん、今のまま陸上続けると、ちょっと怖いなぁ。命が。」と
言ったのです。
ジョークのつもりだったようですが、
当時、高校生の荒馬には、
ジョークに受け取れず、もう恐怖しかありませんでした。
「えっ、死ぬの? 嫌だよーーー」
あまりの怖さに、
両親にも兄にも、顧問にも友人にも、
そのことを告げられずに、ウジウジ悩んでいました。
そこへ、
右膝の靱帯を損傷してしまう、二重苦が。
大会3日前の体育祭でした。
絶対にケガをしてはいけないと心に刻んでいたのに、
勝負事でついつい熱くなってしまう荒馬は、
バレーボールの試合で、アタックを打った後の着地に失敗し、
靱帯を切ってしまいました。
「今、変な音しなかった?」「あれ!? 荒馬、立てないの?」
そんな友人の声を、唖然と聴いた荒馬です。
担任に運ばれ職員室に行くと、
血相を変えた顧問が、怒りと悔しさのあまり、
ゴミ箱を思いっきり蹴り飛ばしたのは鮮明に覚えています。
スローモーションのように、
空を舞うゴミ箱とゴミ達。「あ~、やっちまったーー」
当時、荒馬は、走り幅跳び・400㍍ハードル・400㍍・4継の選手。
喘息にも膝にも、非常に負担のある競技でした。
膝は人工靱帯の手術を勧められたのですが、
当時は、リハビリを含めた入院期間が半年間。
自宅から遠方の病院だったこともあり、通いも難しく、
半年間休むと、進級に影響が。
「選手を辞めるのであれば、
日常生活には大きな支障はありません。
手術は今すぐでなくても良いでしょう。」
もう、喘息やら靱帯損傷やらが一気にきて、
混乱はするし、親も「あんたが決めなさい」と丸投げ。
そもそも喘息のことも内緒にしているので、
毎日、嫌な夢ばかり見て、本気で恐怖を感じ、
あっさりと陸上を辞めてしまいました。
今でも膝の調子は良くなっていませんが、
喘息はかなり良くなっています。ほとんど発作は出ません。
そんなほろ苦い思い出もある陸上人生。
今回の、リオオリンピックでの男子4継の映像を見て、
興奮すると同時に、そんなことを思い出しました。
ずっと個人競技をやってきたので、
団体競技の面白さや良さを体感できなかった荒馬。
それでも、
教師になってからは、陸上部ではなく、
バレー部・バドミントン部・バスケ部の顧問を務めたことがあるので、
選手ではないものの、間接的に集団競技に触れることができました。
荒馬は個人競技向きのようです。
後で、もう一度、
男子4継が銀メダルに輝いた瞬間を観ようと思います。