荒馬のつれづれ日記

好きなことを、好きな時に徒然と綴る日記です。

音の記憶 音の感性 心の耐久性を考えてみた 

研ぎ澄まされていた「音」の感覚や感性が

鈍っていく自分が悔しくもある荒馬です。

それと同時に、

音の記憶により、心の耐久性を知ることになるなんて…

 

ひょんなことから最近はこちらを再読しています。 

ちはやふる(1) (BE・LOVEコミックス)

ちはやふる(1) (BE・LOVEコミックス)

 

そう、競技カルタを題材にしたコミック

アニメ化も映画化もされた作品です。

 

荒馬は北海道出身

競技カルタの文化はありませんでした。

同じようなルールで行う競技カルタはありますが、

下の句カルタと呼ばれるもので、札も木札です。 

 新品は売っていないのか、探しても中古品ばかりでした。

北海道に行けば、売っているのだろうか…。

その文化も廃れてきたのだろうか…。

 

荒馬は小中学生の頃に、この下の句カルタの競技カルタをやっていました。

北海道全体の大会(全道大会)に出て入賞した経験があります。

この当時は、自分で言うのもなんですが、

本当に耳が良かった。

ちはやふる』の千早とまではいきませんが、

読み手の声を聞き、次の札が読まれる直前の息づかいによって、

次に来る札を予測することができました。

あれは訓練ですね。そして、やればやるほど、精度が上がってきます。

敵陣の札を抜いた時の爽快感は忘れられません。

 

全国版の競技カルタを知ってからは、微妙なルールの違いがあり、

似て非なるものなのだと分かりましたが、それでも同じカテゴリです。

 

耳の良さは、音楽にも大事なもの。

ちょうど競技カルタをやっていた頃は、エレクトーンを習っていた荒馬

相乗効果で、カルタも音楽も存分に満喫することができました。

耳コピが得意で、一度聴いた音楽を演奏するのが大好きでした。

 

小凡師くんも小小凡師くんも、耳が良いほうだと思います。

音楽が好きというのもありますが…

だからこそ、イヤホンやヘッドホンは極力避けて欲しいなと思っています。

TVなどの音量なども含めて…。

 

年齢と共に衰える聴力

その他にも生活環境によって「耳の良さ」(聴力だけに限らず)

変化するものです。

生活音が最たるものでしょうか。

言葉遣い・動きの丁寧さなどによっても、耳の良さ・耳の感性は変わります。

生活音というのは、地味にストレスになるものですよね。

心地よい物音と不快な物音が存在します。

これは人によって違いがあるものだとは思いますが、

ドアの開け閉め・食器の扱い方・動作のドタバタ音

パソコンのキーボード・家具全般の使い方などなど

挙げればキリがありませんね。

 

物を丁寧に使う・所作を綺麗にする

それだけでも大きな違いが生まれると思っています。

よく[育ちが分かる]という表現をしますが、

言葉遣い・所作・物の扱い方は顕著に現れると思っています。

物を持たないシンプルな生活というより前に、

暮らし方の一つとして、大事なポイントなのだと思います。

 

聴力は最初に育ち、最期まで残っている感覚だと言われています。

生まれてから亡くなるまで、多くの音や声を耳にしますが、

1つでも多くの綺麗な音や声を聴いていたい

そんな風に思っています。

 

先日も自慢話という名の文句をたくさん耳にしました。

自分に関わる内容だっただけに、精神的ダメージもありましたし、

耳にも残る「不快な音」として、頭の中に記憶として残ってしまいました。

負の連鎖というか、フラッシュバックというか、

過去に耳にした「不快な音や声」の記憶を思い出し、

年度末の忙しさも重なって、精神的な落ち込みが著しかったです。

自分自身でも驚くほどに…

もう聴きたくない。だから、そういう場を避ける防衛策を取り、

同時に思い出した「不快な記憶の音」も抹消すべく、

荒馬にとっての心地よい音の上書きをしている最中です。

 

声の記憶・音の記憶は、映像の記憶でもあるので、

何年経っても残るものですね。

学生時代の不快な記憶

7年ほど前の不快な記憶

この2つが強烈に残る不快な記憶として呼び覚まされてしまいました。

 

耳の感性を磨いて、上書きをしないと、

年齢と共に衰えるのは耳だけでは無く、心もかもしれません。

心の耐久性が落ちていることに気付きました。

大人になると、嫌なことを避けるのが上手になるが故に、

耐久性がどんどん下がっていくのですね。

心と筋肉は鍛えなければ!

音の感性も鍛えられるのだろうか。

耳の良さは?

せめて、生活の中の音に気を遣い暮らしていこう。