荒馬のつれづれ日記

好きなことを、好きな時に徒然と綴る日記です。

分からないことを楽しめない

みなさん、こんばんは。

映画を観ていて、気付いた荒馬です。

 

以前、小説や映画の結末を

【観た人に委ねる】【それぞれが感じられる余韻】という

のは苦手だと書いたことがありました。

今日、観た映画がまさに【分からないことだらけ】だったので、

分かるように、自分なりに色々と想像をしていたのですが、

ふと気付きました。

 

あっ、分からない状態を楽しめなくなったんだ。と。

昔は、もっとそういう作品を楽しめていたはずです。

あれこれ考えて、想像して、

あんな背景があった・あの後こうなるんだと、

見終わったり、読み終わった後にもワクワクしながら。

でも、いつの日からか、

見終わった(読み終わった)時点で、

【全て終了。そして次のこと】というのを視点になってるんだろうなぁと。

それは、

小説や映画の後にやってくる、日常の生活の方が優先されたってこと

なのかなぁと思いました。

 

昔だって、日常の生活の中に娯楽があって、その前にも後にも、

日常の生活があるのは、今と変わりなかったはずなのに、

その余韻を楽しむ、【心の余裕】【時間の余裕】が、

いつからか、無くなってしまって、

それらを楽しめなくなったのではないかと、思ったんです。

だからこそ、

限られた娯楽の時間を、その時できちんと終了したい。

じゃないと、

中途半端な状態が続くから。でも、そこを楽しめる時間がないから。

 

苦手なのではなく、

それを楽しむ心や時間が無くなったのだと、今日、きづきました。

と言うのも、

その映画を見終わってから、

ネットで、原作の漫画との比較や映画を観た人の感想などを読みながら、

荒馬が観て【?】が残った部分を補填しようと、

している自分がいたからです。

 

考える・想像する力が衰えたのだと思いました。

ラクに理解したいと、思うようになったのだと。

これって、

ちょっとマズイかも…と思いました。

脳がラクを求めているのは、良くないなぁって。

だから、苦手です という言葉でごまかしていたのだと気付きました。

 

いかん、いかん。

これではいかん。

 

もっと考えたり、想像したり、という脳の活動をしないと、

おそらく、体の動きにも影響がいくような気がします。

面倒くさがりを通り越して、

動くことさえ、億劫になり、

動かないでできることをやるようになってしまう気がして…。

 

そんな自分に気付いて、ちょっと怖くなりました。

分かりやすいことがダメではありませんが、

もっと、読者(観客)に委ねられている作品を観たりして、

自分で考えてみる、想像してみる活動を取り入れようと思いました。

 

そして、そこを楽しめるようになれば、

もっと自分の考え方や価値観も柔軟になるような気がしています。

最近ちょっと、

型にはまりすぎて、そうではないものに触れると、

異様な嫌悪感やいらだちを感じるようになってきています。

 

それは、ちょっとキケンだなぁって。

今はまだ、そこに気付けているので、戻れるような気がします。

 

危ない危ない。