荒馬のつれづれ日記

好きなことを、好きな時に徒然と綴る日記です。

戦争と平和について考える

こんにちは。

戦争と平和について勉強をしている荒馬です。

 

今年度から、市民定期講座の講師を務めさせて頂いています。

秋田県民になって3年目。

絵本セラピストとして、お仕事の依頼を定期的に頂けるようになり、

有り難い忙しさの日々を過ごしています。

市民定期講座では、基本的には絵本セラピーを行っています。

参加されている方は、20代~80代の女性。

毎回、テーマに合わせて数冊の絵本を使い、

読み聞かせを取り入れて、ワークシートに感じたことや考えた事を書き、

それをグループごとにシェアリングするという内容です。

 

8月9日に第3回目があります。

3回目は、受講者の方々からリクエストがあり、

テーマを【戦争と平和】に決定しました。

 

教師時代、毎年、平和教材を使いながら、授業をやっていました。

国語の教科書には必ず戦争がテーマの作品が掲載されており、

その作品を学習する中で、

作品に合わせた資料を準備して、授業の導入をしていました。

また、それとは別に、

道徳の授業で扱ったり、以前住んでいた土地には、平和の日があり、

その時にも平和教育を行っていました。

 

毎年、別の教材を扱っていたので、その都度、事前準備のために

しっかりと勉強をして、間違いのないように、

また、

感情的にならず、私見のみに偏らないように気をつけていました。

 

教職を離れて9年。

私自身が戦争や平和について考える機会がなくなりました。

息子達と語ることもありません。

今回、受講者の皆さんのおかげで、講座の準備のために、

改めて勉強をしなおす機会をもらえて、

今は、絵本選びや資料作りをしています。

 

今回、調べる中で、これまでの知識が、いかに浅かったのかがよく分かりました。

自分の中にしっかり落とし込まずに、知識の詰め込みで満足していたことが。

もちろん、

今回の勉強でも足りていない部分は多くあると思うのですが、

それでも、今回は以前よりも深く学べた気がしています。

 

そして、秋田に来てみて、

高齢の方々と接する機会が増えたので(さすが高齢者県)、

戦争の捉え方や感情が違うのだと実感です。

次の定期講座は荒馬の方が学ぶべき時間となりそうです。

『かんぺきな こども』

こんばんは。

少しドキッとしつつ、

大人としての在り方や立ち位置を

考える機会になった荒馬です。

 

久しぶりに絵本の投稿です。

今日はこちら。

かんぺきなこども (ポプラせかいの絵本)

かんぺきなこども (ポプラせかいの絵本)

 

子どもがいないご夫婦。

「かんぺきなこども」を買いに行きます。

なんでもできる、まさしく完璧な子。

しかし、ある日、

ワガママな態度をとります。

困った夫婦は返品に向かうのですが…。

 

大人、とかく親は、

ついつい子どもに様々なことを求めたり、

できるようになってもらいたくて、

ハッパをかけてしまったり…。

改めて話をすると多くは求めていないようで、

日常の中では、やはり。

 

この絵本を見ていると、

大人の在り方・親の在り方を考えてしまいます。

そうは言っても、

荒馬も、小凡師くんや小小凡師くんに

知らず知らずに、

要求を出しているのかもしれません。

だからこそ、

求めるだけの大人なのかと自問自答しています。

子育てに限らず、大人社会でも言えること。

 

今年度、荒馬が住むところの

社会教育委員を委嘱されて、

教育に関する機会が増えました。

地域・学校・家庭、社会教育・生涯学習など。

会議や学校訪問などに行くと、

色々な役職の大人達と話す機会があります。

また、

絵本セラピストとしても、

今年度に入ってから依頼が増えて、

子育て世代・現役世代・高齢者世代の方々と

触れ合う機会も増えました。

 

ここ数年、

特に北海道にいる頃は、自宅にいる時間が長く、

外へ出かけても、

気の合う友人だったり、

同じことに興味のある人達だったりと、

荒馬にとって居心地がよく、

会話も噛み合わないことが少ない場所にいました。

心は満たされるのは当然ですが、

しかし、議論の場ではないので、

考えて、話すということがありませんでした。

 

こちらに来て、

上記したような場面に出かけると、

噛み合わないこと、

引っかかりを感じること、

不快感・不信感を抱くことも…。

世代の違いも当然ありますし、

地域性もあります。

 

県内でも田舎ですし、

人口の7割(言い過ぎ?)は、高齢者なので、

民度というか、文化というか、

そういった違いもあります。

あまり気にしたことがなかった、

県民性というのも気になっています。

 

そうそう、県民性を気にするようになったのは、

おそらく、

秋田県の人たちが、

会話の中に「秋田の人は◯◯だから」

「県民性だなぁ」というフレーズを

聞くようになったからだと思います。

よく聞くようになったので、

調べてみようと思う、

確かに当てはまっている。

あながち県民性もあるのかも…。

 

やはり様々な場に出ると良いですね。

視野が広がり、凝り固まっていた思考がほぐれ、

考えるようになり、行動するようになります。

プラス、

年齢的にも良いのかもしれません。

肩の力を抜いて、

反発だけして、自分を誇示していた若い頃より

柔軟性を持って、受け止めたり、

受け入れられるようになりました。

人との付き合い方も距離感や詰め方・保ち方も

以前よりは、うまくできている気もします。

そのあたりは、

地元から離れたというのが良かったです。

 

だからこそ、

子どもから見える大人としての自分は、

誇れるのか。

大人を楽しんでるように見えるかな。

など、

自分の正面だけでなく背面にも気配りを

しなければなぁなどと。

 

「かんぺきな おとな」って?

「かんぺきな こども」って?

 

 

 

『勇気一つを友にして』

こんばんは。

頭の中で同じ歌が繰り返し再生されている

荒馬です。

 

こういった現象を【イヤーワーム】と

言うそうですが、

この現象の頻度には個人差があるのでしょうか?

知りたいところです。

荒馬は割と多いタイプ。

CMやドラマ・映画の曲だったり、

ドラマや映画でもメインテーマではなく、

挿入歌の方が多いのですが…。

 

最近は特に多くて、

しかも、

昔、聴いた曲が突然浮かんできて、

エンドレス再生という具合です。

 

ネット検索をしてみると、

解消法も出ていたのですが、

荒馬の場合は、

その曲をとにかく聴きまくるようにしています。

今は便利な世の中です。

検索するとYouTubeなどで、

いくらでも出てきます。

運転中や料理中に音楽を聴くことが多いので、

その時に、どんどん聴いて、

脳が納得いくまで楽しんでもらっています。

 

最近のイヤーワーム現象の曲は、


勇気一つを友にして

もう一つが、


メトロポリタン美術館 / 大貫妙子 (みんなの歌) - Solo Guitar Accompaniment 88

 

こちらの2曲です。

どちらもNHKみんなのうた』の曲なのですが、
なぜか耳から離れません。

確かに、昔、好きでよく歌っていた曲なのですが、

なぜ今ごろ突然浮かんで、離れなくなったのか…。

 

先ほども書いたように、車で、家で聴きまくっています。

改めて歌詞を見てみると、『勇気一つを友にして』は、

歌詞も深くて、渋い曲を【みんなのうた】にしているなぁと

感じました。

意外と【みんなのうた】侮れませんね。

 

子どもの頃は特に何も感じることなく、

曲の雰囲気で聴いていましたが、

大人になってみると深さが分かる…というのはよくあります。

 

これは絵本も同じで、大人になったからこそ感じられることも

多くあります。

 

今月から、住んでいる地域の教育委員会生涯学習課が企画する、

市民定期講座で絵本セラピーをさせて頂くことにもなりました。

秋田県の女性を応援するポータルサイトからも取材を受けたり、

少しずつ荒馬の活動も、種まきが終えて、芽が出てき始めている。

という感じです。

 

暑さに負けず、頑張ろう。いや、頑張れるかなぁ。 

昆虫に少しだけ、少しだけ興味を持つ

こんにちは。

虫の種類の多さに今さら感激している

荒馬です。

 

外が温かくなり、緑が濃くなる季節になりました。

住んで丸2年経つと、

少しずつ暑い日にも、体が慣れてくるようになりました。

外での活動が増えたり、散歩が心地良いです。

荒馬、そんなに虫が苦手ではないので、

外で見かける虫に、興味がわいてきています。

 

と言うのも、以前まで住んでいた北海道の北部は、

年間通じて寒いため、

秋田のこちらの地域よりも、虫の数・種類ともに少なかったのです。

荒馬はそれがあまりに当たり前だったので、

こちらに来て、数の多さ・種類の多さに驚いています。

 

秋田でも内陸部で田舎なので、緑豊か。

川が流れて・森が多く・水田が多い。

植物もそうですが、昆虫を含む動物が多く出るのも分かります。

 

蜘蛛ひとつとっても、

見る度に色々な種類をみかけます。

害虫と呼ばれる種類も多く、北海道北部では見たことのない虫もいます。

蜂の種類も多いですし、

咲いている・生えている草花も多くの種類が見られます。

 

こういうものに興味を示すのも、年をとったからでしょうか。

今、無性に図鑑をみたくなっています。

ネットで調べるのも便利で早いですが、図鑑を開いて見比べたりできるので、

図書館で借りてこようかなぁと思っています。

40代の体との向き合い方を考える

こんばんは。

40代に入り、体の衰えをひしひしと感じている、

荒馬です。

 

雑誌だったか、新聞だったか、ネットだったか、

出典は忘れてしまったのですが、コラム欄の一節が

妙に頭から離れません。

『女性は40代になると予想以上に体に変化が起きる。

 1ヶ月の中で、絶好調の日は、まずないと考えても良い。

 それくらい、どこかしらに何かが起きる。または残る。』

確かに、

昨年40歳になり、様々な体の衰えを感じています。

○○力と呼ばれる類いのものが、著しく低下していることも。

とは言え、ブログ更新が物凄く久しぶりになっているように、

特に今年度は大忙しの荒馬。

小凡師くんが通う中学校のPTA副会長やら

住んでいる市の社会教育委員やら

○○実行委員やら、という大役にお声がけ頂く機会ができました。

【頼まれごとは試されごと】という言葉をよく聞きますが、

秋田県に移り住んで丸2年。

まだまだ色々なことに不慣れな荒馬に声がかかるということは、

なり手がいなくて相当困っているのか、

移住者だからこその新しい風を求めているのか、

何か荒馬に期待をかけて声をかけて下さったと思ったので、

荒馬の家庭の事情(小小凡師くんの介護・看護)を話した上で、

それでもお役に立てるのであれば…とお引き受けしました。

さらに、

絵本セラピストとして荒馬にも、

ご依頼を頂くことが増え、4・5月は、心も体もバタバタしていました。

 

移住したての頃の【時間に追われる感】とはまた違う、

【時間に追われる】感覚を味わっていますが、

何とも心地よい感じです。

と言っても、体には蓄積されるものがあるので、

確かに、絶好調の日がありませんでした。

 

毎日、どこかしかに不調が起こります。

我慢できる範囲のものから、病院へ行かないと辛いものから…。

小小凡師くんも日々成長し、抱きかかえる重さが増しています。

筋力がつくのは時間がかかるのに、落ちるのはあっという間。

体重を減らすのは時間がかかるのに、増えるのはあっという間。

あまり健康を意識してこなかったので、

ここらで、意識の変換が必要そうです。

 

自分の体を知り、整える・鍛える・摂生する

これらを真剣に考える時が来たようです。

まだまだ親としても体力が必要な時。

日々たくましくなる息子達には敵いませんが、

少し頑張れば手の届く距離を保つ必要があります。

 

お陰様で、心の健康と安定は絶好調。

これは加齢が味方しているのか、

無闇に、イライラしたり、怒ったりがなくなりました。

負の感情の方が体に負担がかかるものです。

悲しくて泣くのも、怒るのも、悩むのも、本当に疲れます。

笑いすぎも疲れますが、笑うこと・楽しむこと・穏やかにいることの方が、

精神衛生上も良く、体力の省エネができます。

 

喜怒哀楽が面倒になっている時点で、

年を取った証拠なのかもしれませんが、

今は体力を温存しつつ、作り上げる時。

特に日常的に運動をしない荒馬にとっては、

40代ではなく、60代並みの体のような気がしています。

 

秋田の高齢者は本当に元気。

笑うのも怒るのも、話すのも動くのも…。

荒馬の方が若いはずなのに、自分で自分の方が老いていると感じます。

放っておいても大丈夫…の年代は過ぎたのですね。

 

面倒くさがりの荒馬。

自分にめっぽう甘い荒馬。

程よい着地点を見つけて、無理なくやっていこうと思います。

慣れる体

こんばんは。

春の陽気が心地よい季節になり、

気持ちもワクワクしている荒馬です。

 

新年度が始まって3週間。

我が家の男衆は、毎日、本当に頑張っています。

新たな環境で張り切っているのは良いのですが、

このまま走り続けていると、

ドッと疲れが来るのではないかと、

心配になる気持ちが強いです。

とは言え、

特に凡師さんは、立ち止まる間もないほどで、

自ら走っていると言うよりは、

ランニングマシーンに乗せられているという雰囲気。

これは、

小凡師くんにも言えるかもしれません。

今の中学生は本当に大変そうです。

それに輪をかけて、

秋田の中学生は(秋田に限らずなのかなぁ)、

本当に気の毒になるほど。

 

教師の働き方改革なんて言われていますが、

これって、

先生達が、自分で自分の首を絞めているだけでは?と

感じさせるようなものもあります。

質問をしてみても、明確な答えができない。

先生達も疑問に感じつつも、改善しないまま過ごしています。

昔からそうやっている。という慣習に縛られているのか、

変える気持ちがないのか…。

先生達も大変なのかもしれませんが、

結果的に、

生徒や保護者にしわ寄せが行っている事柄もあるように感じます。

 

学校現場や教育環境については、

未だに慣れることができませんが、

秋田県民になって、丸2年。

 

慣れる体になったのは、

気温について。

今日は太陽も顔を出し、20℃という気温。

吹く風は少し冷たいですが、

日差しが当たると暖かい。

 

数年前なら、4月に20℃なんて、

あり得ないと思っていたのに、

慣れるものですね。

今日の荒馬の服装は、

長袖のヒートテックに、薄手ではありますが、ニットセーター。

さらに上着を羽織っています。

ふと、運転しながら、

北海道に居た頃は、この気温や日差しなら、

もっと薄着だったのに…と思い、

妙にニヤニヤしてしまいました。

 

沿道には花が咲いていて、

桜の花も咲き始めていたり、色づいていたり…。

関東以南であれば、すでに散っているのかもしれませんが、

北海道・東北はこれから…の場所が多いと思います。

今が一番、過ごしやすいかもしれませんね。

 

あと数ヶ月もすれば、

また、暑い暑い暑い夏になります。

昨年よりは、暑さに慣れているのでしょうか。

今から、楽しみであり、不安でもあり。

 

今年度は、様々な場面で、

出番を頂いているので、体調管理をしっかりしようと思っています。

ハイヒールの体

こんばんは。

ハイヒールを履きこなしたい荒馬です。

 

ハイヒール。

とりわけ、ピンヒールは格好良い。

憧れていた靴。

 

母がオシャレをし、ヒールを履く姿が、

とても格好良く、憧れていました。

学校から帰宅後、

姿見鏡の前に新聞紙を敷き、

母のハイヒールを履いてみました。

上手く立っていられない。

2,3歩ですら、歩くのがおぼつかない。

小学校高学年くらいの荒馬です。

当時、すでに165㎝を超えていました。

母の背を追い越していたので、

母の服も着られます。

母の服に袖を通し、母の靴を履く。

身長は大人並みなのに、

これが全く似合わない。

何が足りないのだろう。いくつになれば似合うのだろう。

そんな事を考えていました。

 

短大生の頃、ヒールは履いていましたが、

時はアムラーブーム。

ピンヒールではなく、厚底靴が主流。

ヒール部分が太かったりする靴はありましたが、

当時は、ピンヒールは何となく気恥ずかしい。

もっと大人の女性が履くモノ。

背伸びしすぎていて、不釣り合いな靴に感じていました。

 

短大卒業後、すぐに社会人になりました。

そうなると、

数ヶ月前まで不釣り合いに感じていた、

スーツもピンヒールも、一気に身近な存在に。

 

当時は痩せていて、身長も170㎝。

顔はさておき、後ろ姿は、なかなかサマになっている。

(荒馬だけがそう思っていただけかもしれませんが…)

 

何となく、フォーマルな場面では、

ピンヒールが正装に合わせる靴と感じていました。

もちろん、高すぎるのはいけません。

5㎝くらいがジャスト。

それが荒馬の正解。(世の中の正解は知りませんが…)

 

姿勢も良くなりますし、歩き方にも気を遣います。

颯爽と歩く姿は幼い日の憧れの映像。

颯爽と歩けていたかは分かりません。少なくとも荒馬基準です。

 

数年後、すっかりヒールを履くのも慣れた頃、

子どもが産まれました。

ヒールの靴は靴箱の奥に…。

たまに1人で出かける時と、

仕事の時にもたまに履く程度。

 

だからこそ、分かることもあります。

加齢による、筋力の衰え・ボディバランスの悪さ、

出産による体のゆがみが、

ピンヒールを履くと、分かりやすくなりました。

立っていられない。

歩き方が悪くなる。

 

立ち姿勢や歩き方が悪くなる。

それなら履かない方が良い。

履ける体にならないと、履く資格が与えられないのではないか。

バロメーターにしつつ、

3㎝ヒールから再挑戦。

 

ヒールを履いた翌日は、

全身が筋肉痛に。

筋肉痛になるということは、まだ筋肉が辛うじて残っている証拠。

毎日数時間履くことはありませんが、

履きたい時に履ける体でいること、

年々、それを感じます。

 

荒馬の女としての意地なのか、

そこで「ハイヒールは履かない」という選択肢にはならない所に、

複雑な感情が入り交じります。

 

ずっと雪国に住んでいる荒馬は、

冬場は当然、ハイヒールは履きません。

もちろん、これは、身の安全と冷え対策のため。

室内で履く場面が冬場に数回あるかないか。

雪が溶け、春になる頃、

まずは、

幼い頃にやったように、

姿見鏡の前に新聞紙を敷き詰め、

部屋の中でヒールに足を通します。

2,3歩、歩いてみます。

 

「よしっ、いける」

「うわっ、ヤバッ」となるかは、その年によって違います。

今年の冬は後者。

 

姿見鏡の前の新聞紙を、

室内干しのための物干しラックの前に敷き詰め直し、

洗濯物を干す作業をヒールを履きながらやってみます。

バランスが保てない。

足首がグキッといきかける。

屈んでから立つのがキツい。

 

こんなにも衰えているのか40代になった荒馬は。

年が明けてから、暴飲暴食の習慣がついてしまい、

昨年の秋と比べると5キロも太ってしまいました。

太るのは一瞬なのに、痩せるのは途方もない時を要します。

 

しかし、来月から定期的に、

絵本講座・絵本セラピーなどなど、人前での出番が増えます。

この衰え、肥えた体を何とかしなければ、

荒馬の思い描く[格好良い女]が…。

 

「おいくつなんですか?」

「41歳です」

「えーっ、もっと若いと思っていました」

「そうですか。ありがとうございます」

 

荒馬の理想の会話です。

サバを読むよりも、こちらの方が格段に気分が良い。

「そんなことありませんよ」

という謙遜も、一つ間違うと、相手に失礼になるのではないか。

それが、たとえ社交辞令でも、

互いに気持ちよく終わるのは、上記の会話だと思う荒馬。

 

今のままでは、

「おいくつなんですか。」

「41歳です」

「あっ……そうなんですね」(もっと上かと思った…)

「……」

「…………」

 

が繰り広げられそうです。

 

荒馬改革始動

ハイヒールの(似合う)体(作り)

コンプレックスが強みに変わる

こんばんは。

声にコンプレックスを持っていた

荒馬です。

 

幼い頃から声が低い荒馬。

友達に電話をした時、

電話に出た友達のお母さんが、

友達を電話口に呼ぶ際、

昔は保留音が無い電話も多かったので、

声が筒抜け。

「荒馬っていう男の子から電話だけど、

    誰? 彼氏なの? 聞いてないけど。

    あんた何考えてるの?

    そんな暇があるなら、

    もっとやることあるでしょ。」

なんていう言葉が…。

 

「なんか、ごめん。荒馬だけど…」

「あっ、荒馬?なーんだぁ。

    お母さーん、荒馬ちゃんだよー。

    ベロ失礼だからぁ。」

(あっ、ちなみにですが、

    「ベロ」とは「とても」という意味で、

   荒馬が生まれ育った地域限定の方言です)

という会話がなされていました。

 

自分の声は低くて嫌だなぁ。

周りの女子と同じように、

「キャー」って言えたら良いのに…。

なんて思っていました。

高い声が出ないのか、

低いと思い込むあまり、

高い声を出さないのか、

そのあたりは自分でも分かりません。

 

合唱の時に、

ソプラノパートだったこともありますし、

ファルセットは出ていました。

しかし、

話す声は周りの女子より低く、

周りの男子と似たような感じでした。

 

声を出すときは気を付けていました。

低すぎて、聞き取れないかもしれない。

だから、

ハキハキ、声を張ろう。

そのため、

荒馬は地声が大きくなりました。

低いことより、声が大きいことで、

注意されることも…。

 

人並みに恋をして、彼氏ができても、

身長も高く、声も低い彼女は、

嫌だろうなぁ。

身長は変えられないけど、

声は頑張れば…と、

無理をして高めに出していた気がします。

 

荒馬はカラオケボックス世代。

学割なんてシステムがあり、

6時間1,000円(部屋代)で、

学生は歌い放題というプランがありました。

長居すれば、

飲み物や食べ物を頼むので、

結局、安上がりではないのですが、

不思議とカラオケボックスの食事は、

レストランや喫茶店よりも美味しく感じました。

 

そのカラオケでも、

女性歌手の歌は、ほぼ歌えません。

キーをMAX低くして歌うか、

逆にMAX上げて、低く歌うか。

男性歌手の歌のほうが、ラクでした。

 

声が低いことをバカにされたり、

いじられることはありませんでしたが、

勝手に1人でコンプレックスを感じ、

溜息をつくことが多い日々。

 

初めて声を羨ましがられたのは、

短大生の時。

仲良くなった女友達が、

「こういう声に憧れてるんだよね。

   いいなぁ。カッコイイ!」

と大絶賛してくれて、

「荒馬の声、最高だよね。私好き。」

と周りに言ってくれて、

さらに、

褒めてくれる人が増えました。

最初に褒めてくれた人というのが、

これまで会った人の中でも、

五本指に入るほどの美人。

そこいらの女優さんにも勝ってしまうくらい。

性格もノリも良く、オシャレさん。

そんな人だからこそ、

影響力もハンパなく、彼女のお陰で、

自分の声を好きになりつつありました。

 

教師になってからも、

「キーキーうるさくなくて、逆に響く」

「ズシンとくるんだよね。その声」

「先生の音読が好き」

と言ってくれる生徒も。

 

秋田に来て2年が経ち、

講演会や絵本セラピー®︎で、

絵本の読み聞かせを取り入れるのですが、

声や読み方を褒めて下さる方もいて、

今は、素直に嬉しく感じます。

 

声も基本的には変えられないもの。

声色を変えたところで、

ベースの声は変わっていないので、

こういう変えられないことを

褒められるのは、とても嬉しいです。

身長も、今となっては、

良かったなぁと感じています。

 

そして、

大人になってから、感じるのが、

相手を褒める言葉を自然に使える人は、

とてつもなく素敵だということ。

社交辞令は、

案外、言われた本人が分かるものです。

 

叱られる機会も減りますが、

褒められることも減るのが、

大人社会。

頑張りや成果を評価してもらうことはあっても、

その人自身のパーツ・持ち合わせているものを

褒めるというのは、

やっていそうで、できていないかもしれません。

 

荒馬が、今回、

こんなにも嬉しく思ったように、

荒馬も、誰かを嬉しくさせるような

言葉がけをしたいも思っています。

 

今週末は、講演会の講師として、

90分お話をします。

もちろん、絵本の読み聞かせを織り交ぜて。

聴いて下さる方々が、

心地よく感じる声を出したいと思います。

最近は、

よく噛むので、滑舌にも気を付けなければ…。

 

 

注目! 非認知能力

こんばんは。

新しいことを学んで、

脳がウキウキしている荒馬です。

 

最近、注目を集めているのが、

非認知能力。

点数や成績などのように数値化できない力。
コミュニケーション力や共感力、

忍耐力、自尊感情、意欲や主体性などの

 「生きる力」とも言われる能力。

 

振り返ると、

保育・教育分野では、

何年も前から大切にされている内容です。

教育が大きく変わる

と言われている最近。

だからこそ、改めて、

今の教育で良いのか、

どう変革すれば良いのか、

そこに着目しているため、

この非認知能力が脚光を浴びているわけです。

 

先日、非認知能力の研究と実践をされている、

岡山大学  中山芳一准教授の講演を聴く機会に

恵まれて、凡師さんと参加しました。

小難しい話かなぁも思っていたのですが、

とても分かりやすく話してくださるので、

楽しい時間を過ごすことができました。

面白くて、面白くて、

スルスルと脳に入り込んできます。

 

講演会の前に、こちらを読みました。

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アメリカに住む日本人女性が、

自身の子育てをする中で、

経験した内容が書かれています。

日本とアメリカの違いはありますが、

非認知能力を育てるための実践を

積極的に行っているとアメリカの様子が分かり、

また、

日本の教育を受けた著者が、

子育てを通じて、

見たり聞いたり、体感したことが、

書かれているため、

非常に分かりやすい内容です。

 

そして、講演後には、

中山先生の著書も購入しました、

それがこちら。

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講演で話された内容が載っており、

また、

講演の中で使用された図なども載っているので、

復習と再落とし込みには最適です。

 

保育現場・学校現場と協働して、

取り組みを進めているそうで、

岡山県では、

幼保・小中高と連携しながら、

講演や実践報告などもしているそうです。

 

講演を聴きながら、思ったのが、

子どもにも、もちろんですが、

大人にこそ非認知能力が必要だと思いました。

この能力が飛躍的に伸びるのが、

就学前〜小学校低学年の頃なのだそうですが、

それ以降、

無くなるわけでもなく、

伸ばせなくなるわけでもありません。

 

さらに、

変革期なのであれば、

子どもに関わる大人達も、

思考チェンジの時です。

子どもがいる居ないとか、

子育ては終わったからとかではなく、

再び、

子どもは地域の宝  という発想が大切で、

そのために、

新しい概念を知り、学ぶことが、

大人には必要ではないかと思うわけです。

 

教育に関心がある と言うと、

教育熱心というワードを聞くと、

とたんに、

「勉強だけ、できてもねー」

「教育ママ(パパ)にはなりたくないの」

という言葉が聞こえてきます。

 

いやいや、

それはイコールじゃないでしょ

と思うのは荒馬だけでしょうか?

 

保護者という視点で言うと、

ある年齢を過ぎれば、

親にとって大切なのは情報だと

荒馬は考えています。

必要な情報を必要な時に

渡すことができるのか、

その時に、

にわか仕込みの情報を渡すのは、

どうかなぁと思うんです。

 

そういった意味では、

必要不要を問わず、

知識を身に付けておくに越したことはないと

思っています。

 

さらに、

大人が学ぶ姿、

楽しく生きている姿を見せたいとも

思っています。

親であるけれど、

1人の人間として、

自分の人生を大切にしているか、

楽しんでいるのか。

子どもを蔑ろにするという意味ではなく、

なんか、大人って楽しそう。と

子どもが感じることができることって、

ベースになるのではないかと。

 

以前、教え子達と話したことがあって、

「感謝は当然してるけど、

    この人は(親)子どもしかないのかなぁ

    って思う時があって、

     それってどうなの?って、

    ふと思うことがあるんだよねー」

 

「自分の親が、まず楽しそうじゃないから

    このまま学生でいたいって思っちゃう。

    やりたいことを存分に  って言われても、

     説得力ないよってさ」

 

こんなことを話してくれました。

 

案外、

シビアに大人のことを見ているのだなぁと

その時は思ったのですが、

漠然とでも、

子どもはよく見ていて、

よく考えているんだなぁとも

思いました。

 

もちろん、子どもも大人も、

感じ方・考え方・行動の仕方は様々ですが、

せっかくなら、

なんか良いなぁ。

と感じてもらえる大人になりたいものです。

 

 

    

 

 

 

 

1枚のハガキがもたらすもの

こんばんは。

ハガキを書く時間が好きな荒馬です。

 

荒馬が携帯電話を持つようになったのは、高校3年生でした。

小学生・中学生の頃は、携帯電話は存在していても、

みんなが持つ道具ではありませんでした。

高校生になってからでしょうか、ポケベルが発売されたのは。

例に漏れず、荒馬も持っていました。

休み時間になると、学校の公衆電話は長蛇の列。

ポケベルと同時持ちで、PHS(ピッチ)を持つ人も現れ始めました。

ピッチに関しては、少し出遅れた荒馬。

バイトをして、親に「ピッチを買いたい」と言うと、

「まだこの地域じゃ、圏外の場所が多い。どうせ持つなら携帯電話にしな」

という親の助言を受けて、携帯電話にしました。

とは言え、

周りで持っている人が少なかったのと、

本当に電話機能ぐらいしかなかった…そんな学生時代でした。

 

ですので、

手紙はよく書きました。

授業中、ノートを破り、手紙を書いては、

色んな折り方をして、1日に何度も友人と手紙交換をしたものです。

 

大人になると、携帯電話は高校生以上なら1人1台が当たり前。

なんなら、

1人2台以上持っている人までいました。

中学生でも持ち始める人数が増えてもきました。

ショートメール機能・メール機能を使ったやり取りがメインになりつつも、

やはり、手書き文化は廃れず残っていました。

最近は、その文化も以前と比べると薄れている気もしますが、

それでも残っている文化です。

 

手紙を書くのは大人になってからも好きです。

出す相手や季節によって、便せんと封筒・封をするシールを選び、

ペンも選んで…

その書く準備も楽しんでやっています。

そして、数年前からハガキを書くことが増えました。

それも、

筆文字メッセージハガキです。

オリジナルの言葉だったり、誰かの名言だったり…。

 

教師を辞めてから、感じたことが2つ。

①書く字が雑になっていて、綺麗に書けなくなった。

②人と話をする時に、言葉がすらすら出ず、かむことが増えた。

それを改善するために、

日記を書いたり、ハガキを書いていました。

話をするのは、退職して8年経っても、下手な気がします。

単に年を取ったからなのかもしれません。

 

秋田県民になる前は、毎月、40枚ほど書いていました。

引っ越してきてからは、

それは今でも続いているのですが、なんだかバタバタとしていて、

都道府県で時間の流れが違うのでは?と思うほど、

あっという間に時間が流れます。

それでも、2年が経とうとしている最近になって、

少しずつ北海道に居た頃のような時間の流れを取り戻しつつあるので、

ハガキを書く時間を作ることができるようになってきました。

 

先日、地元で家具職人をしている方に会いに行き、

絵本の活動に使う道具の依頼をしてきました。

ご主人が家具職人。

奥様がカフェを経営しています。

荒馬より若いご夫婦。3人の子どもを育てながらも、

生き生きと、自分のやりたいことに取り組んでいる姿、

そして、

気さくなお人柄に、すっかり惚れ込んでしまいました。

初めての打ち合わせを終え、

『出会いに感謝』と書いたハガキを出しました。

初めて会った人には、必ずだしているハガキです。

 

今日、奥様のカフェにサンドウィッチを買いに行くと、

「先日はハガキをありがとうございます。

 もう何度も注文を受けて、モノを作っていますが、

 感謝の意を、手書きのハガキや手紙をもらうのは初めてです。

 とても嬉しかったです。ありがとうございます」

と言われました。

 

今は、メールで済ませるのかもしれません。

もしかしたら、

作ってもらったお礼を、受け取る時だけ伝えて、

その後に改めて礼状を出す人は少ないのかもしれません。

物作り職人ではありませんが、

もし荒馬が職人さんなら、完成品を受け取ったその時も感想は欲しいですが、

使ってみての感想も欲しいなぁと思います。

もちろん、

近くに住んでいる人なら、「どうですか?」と聞くことはできますが…。

 

直接会ってお伝えするのも大切ですが、

形に残るものでお伝えするのも、良い気がして、

荒馬はハガキを書いています。

 

その奥様も

「わざわざ、自分たちのために時間を作って、

 ハガキを書いて頂けたのかなぁと考えただけで、

 さらに嬉しくなりました」

と。もちろん、受け取る側のお人柄もありますが、

そう言ってもらえて、

嬉しくないはずがありません。

 

あー、ハガキを書いて良かったなぁ。

私も嬉しいなぁ。

そんな気持ちで帰路につきました。

 

たった1枚のハガキですが、

それがもたらすものは、目には見えない大きなものなのだと思います。

お互いにとって…。

よし、続けよう。書かせて頂く時間を惜しまなく作ろう。

改めて、そう思った日でした。

 

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